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「教育予算をかけて、本当に企業価値は上がるのか」――経営からの問いに答えられずにいる人事は少なくありません。特定の人材育成施策を受けた社員層で能力スコアが向上し、そのスコアが高いほど営業目標達成率も高く、さらに労働力コストと経常利益のあいだにも統計的な正の相関が確認された――「人材育成→能力向上→行動変容→業績」という4段階の仮説を実証データで裏付けたケースです。
本シリーズ「実録・HRケーススタディ」では、IGSの営業担当が日々向き合っている実際の企業相談をもとに、
・人事と経営のあいだで何が起きているのか
・どこで判断や施策が止まりやすいのか
・それをどう整理し、前に進めているのか
を、できるだけ具体的にお伝えしています。
今回は、現在進行中の取り組みをベースに、「こうなっていけるはずだ」という近未来の姿まで含めて描いています。登場する人物・社名・数値はすべて仮称・仮設定ですが、課題の構造とアプローチはリアルな現場から来ています。
2025年夏、東京・大手町の夜。東証プライム上場企業「東西マニュファクチャリング」の人事部長・佐藤健一は、静まり返ったオフィスで一人、ディスプレイを見つめていた。画面に映るのは、有価証券報告書に関する金融庁の改正案だ。
「2026年3月期から、経営戦略と関連付けた人材戦略の開示を求める……」
佐藤は椅子に深く背を預けた。
「関連付け、か。言うのは簡単だが」
同社はこれまでも、人的資本開示に一定の対応を進めてきた。
女性管理職比率、男性育休取得率、eラーニングの受講時間。
いずれも重要な指標ではある。だが、それだけでは十分ではなかった。
経営陣、そして投資家が本当に知りたいのは、その取り組みが将来の企業価値にどう結びつくのか、ということだからだ。
「佐藤さん、わが社の教育予算は年間数十億円だ。だが、これで本当に企業価値が上がるのかね?」
先日の役員会でCEOから向けられた問いが、今も頭から離れない。
手元にあるのは、研修履歴、年1回のエンゲージメントサーベイ、各事業部の業績数値といった断片的なデータばかり。
それらをどう一つの筋道だったストーリーとして結びつければいいのか。
その答えを、まだ見いだせずにいた。
数日後、佐藤は藁にもすがる思いで、ある研究会の門を叩いた。
「人的資本理論の実証化研究会」
一橋大学大学院の教授が座長として2022年に発足させたその場は、単なる情報交換の場ではなく、エビデンスに基づく人的資本経営を追求する実践的な学びの場だった。
初めて参加した勉強会で、佐藤は強い刺激を受ける。
登壇した専門家が語ったのは、多くの日本企業が陥りがちな「人的資本の誤解」だった。
「エンゲージメントや職場環境の整備は、もちろん欠かせません。しかしそれは『能力を発揮させるための土台』。人的資本経営の真価は、その土台の上に『個人の能力そのもの』を可視化し、投資対効果として示せるかどうかにあります」
示されたのは、「人的資本ファクターモデル」という考え方だった。
・スキルを習得し活用する「人的資本(能力)」
・それを引き出す「能力の発揮度(エンゲージメント等)」
・それらを阻害する「能力起因のリスク」
この三つが一体となって、はじめて企業価値へとつながっていく。
この構造を理解し、実証的に検証すること。
佐藤は、自分が探していたのはまさにこの「論理的な裏付け」だったのだと気づいた。
佐藤は、研究会の個別支援を通じて、自社の課題解決に向けた最初の一歩を踏み出した。
CEOからの問いに答えるため、「人材投資のROI(投資対効果)」を証明する取り組みに着手したのである。
ただし、いきなり全社で始めるのではなく、まずはスモールスタートで仮説検証を行うことにした。
人的資本と業績のつながりを示すには、分析設計だけでなく、関係者の納得感を得ながら進めることが重要になる。
だからこそ、最初から対象を広げすぎず、検証しやすい範囲に絞って成果を出すことが先決だった。
その際に重視したのが、対象部門の選び方だ。
佐藤は研究会の助言を受けながら、モデルケースとなる部門を二つの軸で見極めていった。
一つは、ストーリーの構築しやすさ。
「どの施策が、どの能力を高め、その結果どの行動や成果につながるのか」を比較的明確に描ける部門であることだ。
もう一つは、業績へのインパクトの大きさ。
人的資本施策の効果が、売上や利益、生産性などの重要KPIに結びつきやすい部門であれば、検証結果が経営判断にも直結しやすい。
その結果、佐藤は同社の収益を牽引する主力事業部を最初の対象に定めた。
研究会の専門家の助言を受けながら、シンプルでありながら説得力のある「四段階の仮説」を立てた。
人材育成(施策) を実施することで
能力(スキル・コンピテンシー) が向上し
パフォーマンス(行動変容) を生み
業績(KPI) を押し上げる
まず着手したのは、経営戦略の実現に必要な「人材要件」の整理だった。
戦略上重視すべきスキルを特定し、測定すべき能力を明確にする。
次に、社内に蓄積されていた分散したデータを連結し、分析の設計を行った。
分析の結果、いくつかの重要な示唆が見えてきた。
特定の人材育成施策を受けた層では、特定の能力スコアが明確に向上しており、そのスコアが高い社員ほど営業目標の達成率が有意に高いことがわかった。
さらに、一人あたりの総労働力コストと一人あたりの経常利益の間にも、統計的に正の相関が確認された。
「能力の度合いが1ポイント改善すれば、事業部の利益はこれだけ押し上げられる」
具体的なシミュレーション値が示されたことで、佐藤の中で手応えが確信へと変わった。人事の取り組みが、「勘と経験」ではなく、経営の共通言語である数字として語れるようになった瞬間だった。
実証データの力は大きかった。
役員会で結果を報告した際、CEOは深く頷き、こう言った。
「佐藤部長、これが我々が投資家に語るべきストーリーだ。だが、この『能力』の定義は、今のままでいいのかね?」
佐藤は迷わず答えた。
「いいえ。これからはAIとの協業を前提とした再定義が必要です」
研究会が掲げる次のテーマは「2030年の人的資本経営の可能性」。
AIエージェントをはじめとする新しい技術の進展によって、人的資本が「開示項目」ではなく「経営判断を支える重要な情報」へと進化していく未来が、そこでは議論されていた。
佐藤が実務への落とし込みを前提に着手したのが、「スキルマップ構築」のPoC(概念実証)だ。
業務をタスク単位に分解し、AIが代替できる部分と人間が担うべき部分を切り分けるこの手法により、ヒトとAIのどちらに優先的に投資すべきかという視点で、今後の人材戦略を具体的に描けるようになる。
「人的資本開示は、単なる報告ではない。AI時代の経営判断そのものなんだ」
研究会に招かれた学術界の第一人者たちの言葉が、佐藤の胸に深く刻まれた。
佐藤は、この取り組みをさらに前進させるため、研究会が提供するより手厚い個別支援の活用を検討し始めた。
全10回の月例勉強会を通じた最新理論のインプットに加え、複数職種にまたがるスキルマップの整備、そして継続的なROI検証の実施。こうした取り組みは、単発のプロジェクトではなく、自社の競争力を支える基盤そのものをアップデートする営みに近いと感じられた。
「初年度で一定の結果は得られました。しかし、継続することで、より精緻なROI検証が可能になります」
佐藤は、経営陣に向けた次の提案書にそう記した。
2026年夏。東西マニュファクチャリングの有価証券報告書は、投資家から高い評価を受けた。
「人材投資と企業価値の関連性が、ここまで論理的に示された開示は珍しい」
その反応に触れながら、佐藤はあらためて実感していた。
かつて孤独にデータと向き合っていた自分は、もうそこにはいない。
理論を体系的に学び、実証の方法を身につけ、最新技術の可能性を見据えながら、自社に合った形で人的資本経営を前に進めていく。
その道筋が、ようやく見え始めていた。
人的資本理論の実証化研究会は、佐藤にとって単なる勉強会ではなかった。
2030年に向けて、人的資本を「意思決定のための情報」として捉え直すための、確かな地図だったのである。
大手町のビルから、暮れなずむ街並みを見下ろしながら、佐藤は静かに歩き出した。
次の議論に向かう足取りには、以前にはなかった確信が宿っていた。
IGSが運営事務局をつとめる「人的資本理論の実証化研究会」について、詳しくはこちらをご覧ください。
👉人的資本理論の実証化研究会ホームページ
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