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本シリーズ「実録・HRケーススタディ」では、
IGSの営業担当が日々向き合っている実際の企業相談をもとに、
・人事と経営のあいだで何が起きているのか
・どこで判断や施策が止まりやすいのか
・それをどう整理し、前に進めているのか
を、できるだけ具体的にお伝えしています。
「佐々木くん、今年の有価証券報告書だがね。他社に比べて、うちの人的資本の開示はなんだか薄っぺらい気がするんだよ。来年こそは、経営戦略と人材戦略がどう連動しているのか、株主が納得するストーリーを見せてくれないか。」
東証プライム市場に上場する中堅メーカーで人事本部長を務める佐々木は、社長からのプレッシャーに胃が痛くなる思いだった。
2026年3月期以降、有価証券報告書では「経営戦略と人材戦略の関連付け」がより一層強く求められるようになっていた。
佐々木は今年度の有報については、社内でかき集められるデータ―研修の受講時間、女性管理職比率、平均勤続年数など―を体裁よく並べることで、なんとか乗り切る予定でいた。
しかし、社長の言う通り、それは「ただの数字の羅列」に過ぎない。
自社の経営戦略を実現するために、これらの数字がどう貢献しているのか、佐々木自身も明確な答えを持っていなかった。
「2026年度の統合報告書、そして2027年3月期の有報に向けて、今の延長線上ではない何かを見つけなければ……」
そんな折、佐々木は、IGSが運営事務局を務める「人的資本理論の実証化研究会」の新規会員募集の案内を目にした。
一橋ビジネススクールの小野浩教授と慶應義塾大学特任教授の福原正大氏が共同座長を務め、「人材への投資が企業価値にどう影響するのか」を実証・実装するという。
「実証……投資対効果(ROI)の計算か。まさに自社に必要なアプローチだ」
藁にもすがる思いで説明会に参加した佐々木が、そこで紹介されたのは「人的資本ファクターモデルⓇ」というフレームワークだった。
「人的資本の影響構造は、『能力 × 発揮度 − リスク』で定式化できます。これらを人的資本の潜在ファクターと呼び、企業価値へとつなげていくのです」

▲人的資本の影響構造を「能力 × 発揮度 − リスク」と定式化した「人的資本と企業価値のフレームワーク」【図】IGS作成
説明を聞きながら、佐々木の頭の中でバラバラだったパズルが繋がり始めた。
経営戦略と人材戦略の連動とは、単に研修費用を開示することではない。
このファクターモデルに則って、自社のストーリーを組み立てればいいのだ。

▲従業員の「能力」を定量化し、その他の人材関連データをともに整理することで、自社の事業成果や企業価値に影響を及ぼしている「ファクター(人的資本関連項目)」の把握を可能にします。【図】IGS作成
研究会では、具体的な開示のストーリー構築について2つのアプローチが提示された。
「一つ目は、人的資本(能力)ベースの開示です。経営戦略の実現に必要な人材要件を整理し、現状の確保状況をデータで可視化して課題を発見します。そこに対して必要な充足施策を打ち、最後にそのROIを検証します。全社でやるのが難しければ、まずは経営に直結するコア人材領域から小さく始めることが成功の秘訣です。」
「二つ目は、人的資本(能力)の発揮度ベースの開示です。たとえばエンゲージメントスコアと、業績や離職率といった指標の関連性を分析します。そして組織戦略としてのエンゲージメント向上施策を検討し、ROIを検証します。まずは仮説を置いて、やりながら解像度を高めていけばいいのです」
佐々木は必死にメモを取った。
これなら、社長が求める「価値創造のストーリー」を有価証券報告書に落とし込むことができる。
しかし、佐々木の心にはまだ一つの懸念があった。
「理論は素晴らしいが、うちのような普通の事業会社で、本当にデータを使って能力と業績の相関を証明できるのだろうか?」
その疑問を打ち消すように、画面には会員企業による実証データが映し出された。
「これはある企業の事例です。個人の能力(8段階にレベル分け)と営業成績の関連性を分析したところ、能力レベルが1レベル上がるだけで、営業成績が平均して10%程度向上することがわかりました。しかも若手層ほど投資対効果が高いという結果が出たのです」
「さらに発揮度ベースの分析事例もあります。ある企業で、エンゲージメントが高いチームと低いチームの上司(マネージャー)のコンピテンシーを比較しました。すると、エンゲージメントが高いチームのマネージャーは、『課題設定』や『論理的思考』、『共感・傾聴力』といった能力が明確に高いことがデータで示されたのです」
佐々木は息を呑んだ。
勘や経験だけで語られがちだった「育成の成果」や「良いマネジメント」が、はっきりと数値化され、業績への貢献として可視化されている。
もし自社でも「このコンピテンシーを鍛えれば、エンゲージメントが上がり、結果として業績にこれだけ貢献する」と語ることができれば、それは強力な人材戦略開示になる。
「2030年を見据えると、AIや予測市場の広がりにより、人的資本は『開示のためのもの』から『経営意思決定の基盤』へと進化していきます」
説明会の最後に語られた言葉が、佐々木の胸に深く刻まれた。
有価証券報告書を埋めるためだけに悩むのはもうやめよう。
本当に必要なのは、自社の人材投資がどれだけの価値を生んでいるのかを証明し、次の戦略的な一手を打つための「実証」なのだ。
翌朝、佐々木は社長室のドアをノックした。
手には「人的資本理論の実証化研究会・入会決裁書」と、自社で取り組むべきROI検証のロードマップが握られていた。
「社長、来期からの有価証券報告書は、私に任せてください。ただ数字を並べるのではなく、能力と発揮度に基づいた、自社だけの人材戦略ストーリーを作ってみせます」
佐々木の言葉には、これまでにない確かな自信が満ちていた。
2026年度、彼らの企業価値向上に向けた本当の変革が、ここから始まろうとしていた。
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